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2016年2月22日
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この日、「Google」のロゴが変更された国は以下の画像の通りです。
日本
「三浦環」さんって??
「三浦環」さんについて調べてみました。
三浦 環 みうら たまき
日本で初めて国際的な名声をつかんだ「オペラ歌手」です。
1884年2月22日に生まれて、1946年5月26日に逝去されています。
そのため、生誕132周年。
東京、芝で公証人だった父「柴田猛甫」と母「永田登波」の間に生まれました。
1900年に「東京音楽学校」に進みピアノを「滝廉太郎」に師事しています。
1903年、東京音楽学校在学中に、日本人による最初のオペラ「オルフェオとエウリディーチェ」の上演に「エウリディーチェ」役で出演しました。
1904年に卒業後、補助教員として東京音楽学校に勤務、その後助教授となりました。
その間に「山田耕筰」を指導したといわれています。
1911年には帝国劇場に所属し、翌年からプリマドンナとして活躍を続けたといいます。
1913年に医師の「三浦政太郎」と結婚、1914年には、夫婦でドイツに留学しました。
ところが、1914年になると、第1次世界大戦が勃発し、戦火を避けるためにイギリスに移動します。
移動先のイギリスで1915年にデビューすると、ロンドンのオペラハウスに日本人として初めてプリマドンナとして出演します。
演目はプッチーニの「蝶々夫人」。
この公演が好評で、1916年には渡米し、ボストンで初めて蝶々さんを演じています。
その後、世界各地で公演を行っています。
ちなみに「三浦環」さんは、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場に迎えられた最初の日本人歌手とのこと。
1922年に帰国すると、長崎に留まり「蝶々夫人」とゆかりの土地を訪ね歩き、演奏会を開いたそうです。
その後、晩年は日本で演奏教育活動を行ったそうです。
「三浦環」さんが蝶々さんに扮した姿の銅像が、長崎市のグラバー園に建っています。(隣にはプッチーニの胸像があります。)
「浦環」さんは世界各国でおよそ20年の間に2000回にわたり蝶々さんを演じています。
作曲者の「プッチーニ」からも「わが夢」と激賞されました。
ソプラノの明澄甘美な歌声は、まさに「当たり役」だったそうです。
「蝶々夫人」って??
ここで気になるのが「蝶々夫人」です。何か?? というと、、、
Madama Butterfly
アメリカの弁護士「ジョン・ルーサー・ロング」の短編小説です。(1898年)
この小説を元に、アメリカの劇作家「デーヴィッド・ベラスコ」は1900年に戯曲化にしました。
そして、1904年、プッチーニによってオペラ化されます。
あらすじを簡単に説明すると、、、
舞台は1890年代の長崎。
任務により日本に来たアメリカ海軍士官の「ピンカートン」は、現地妻として「蝶々さん」(15歳)と結婚します。
ところが、この結婚は「ピンカートン」にとっては任務先での戯れのつもりでした。
一方の「蝶々さん」は結婚を喜んでおり、キリスト教への改宗までも行っていました。
それからしばらくして「ピンカートン」は任務を終え、アメリカに帰ってしまいます。
帰り間際に「コマドリが巣を作る頃には帰ってくる」という言葉を残していました。
それを信じて帰りを待ち続けること3年、「ピンカートン」はいっこうに帰ってきません。
そんな折、「ピンカートン」を乗せた軍艦が長崎にやってきます。
喜ぶ「蝶々さん」でしたが、その軍艦には「ピンカートン」のアメリカでの妻「ケイト」が乗っていました。
このとき、裏切られたことを知ります。
そして、自ら誇りを守るために短刀で自害します。
日本人に取っては見るのが少しつらい物語です。
オペラではアリア「ある晴れた日に」が有名で、「マリア・カラス」もこの曲を得意としていました。
ロゴデザイン
蝶々夫人がモチーフになっているようです。
海岸で夫の帰りを待っている様子でしょうか。
背景は19世紀後半の日本の風景と飛ぶ蝶、「Google」の文字が見て取れます。
ロゴ表記されている主な各国のGoogle検索サイト
日本のGoogleサイト「三浦環」
→ https://www.google.co.jp
表示されるGoogleロゴのクリックで検索される言葉は「三浦環」です。