2020年9月7日
Dia da Independência 2020
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表示された国
ブラジル
独立記念日
Dia da Independência:独立記念日
「9月7日」はブラジルの独立記念日です。
「1822年9月7日」にポルトガルからの独立を宣言した日に由来しています。
コロンブスのアメリカ大陸発見から数年後の1500年、「ポルトガル」人の「ペードロ・アルヴァレス・カブラル」さんがブラジルを発見します。
以降ブラジルは「ポルトガル」からの入植、移民が進み植民地となっていきます。
ポルトガルは南米大陸にて16世紀〜17世紀にかけて、他国との戦争を重ね、植民地の領土を少しずつ広げていきます。
19世紀に入ると、ヨーロッパではナポレオンが登場し、混乱に陥ります。
ポルトガル本国も1809年にナポレオン率いるフランス軍に攻められました。
戦火を避けるために、ポルトガル女王「マリア1世」をはじめ、摂政王子「ジョアン」以下、ポルトガル王室に連なる貴族1万5千人が、植民地であった「ブラジル」のリオデジャネイロに避難します。
数年後の1815年にナポレオンは没落しますが、その時には、避難していた王子「ジョアン」が「ジョアン6世」として即位していました。
本国での戦火が収まったので、国王の帰国が望まれましたが、「ジョアン6世」は避難をしたブラジルでの生活に満足し、ポルトガルへの帰国には乗り気ではありませんでした。
国を治めるべき王室が植民地にあり、本国を支配するという不思議な状態に陥ったわけです。
その状況を改善するために、「ジョアン6世」はブラジルを植民地から「ポルトガル王国」と対等の「ブラジル王国」という国に格上げし、同君連合「ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国」とすることで、ブラジルからポルトガルの統治を継続しようと試みます。(アルガルヴェはポルトガル南部の地域)
ですが、この状況に不満のあったポルトガル本国で1820年、革命が発生、「ジョアン6世」は帰国を余儀なくされました。
一方で、ブラジルにとっては、国王がブラジルにいる方が都合が良いわけですから、残留を望みます。
結果として、「ジョアン6世」は帰国することになりましたが、王太子「ペドロ」をブラジルに残し摂政に任命し、摂政府によるブラジル統治という形に落ち着きました。
しかし、革命後の「ポルトガル本国」では、国王も帰国したので、対等の国となった「ブラジル」を再度、植民地へ格下げする検討を始めます。
このことが、「ブラジル」の独立戦争の原因となります。
「ポルトガル」側は「ブラジル」の植民地への格下げをおこなうために、摂政としてブラジルを統治している王太子「ペドロ」の帰国を求めます。
これに対し、ブラジル人たちは、王太子「ペドロ」に独立を勧めました。
「1822年9月7日」、王太子「ペドロ」は、サンパウロ郊外のイピランガの丘で、本国からの帰国命令を受取った際,ポルトガル軍章をもぎ取り馬上で高らかに「独立かそれとも死か!」と叫び、独立の決起を呼びかけました。
これは「イピランガの叫び」と言われており、同日、「ブラジル」は「ポルトガル」からの独立を宣言します。
この日が独立記念日の由来となっています。
王太子「ペドロ」はブラジル王国で「ペドロ1世」として即位します。
その後、独立戦争などを経て、「ブラジル」の独立が「ポルトガル」から承認されるのは「1825年8月29日」のことです。
実は、この「ペドロ1世」ですが、父親の「ジョアン6世」の死去後(1826年3月26日)、ポルトガル国王「ペドロ4世」となっています。
王となった彼は「ポルトガル」、「ブラジル」の再統合を目指しますが、両国の国民がそれを了承するわけもなく、2ヶ月余りでポルトガル王位を退位し、長女の「マリア2世」に譲ることとなります。
ロゴデザイン
ブラジルの国旗にカラーをモチーフにしたロゴデザインとなっています。
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過去にもブラジルの「独立記念日」のロゴが表示されました。
▼ 2019年 ブラジル独立記念日 (2019年9月7日)
▼ 2018年 ブラジル独立記念日 (2018年9月7日)
▼ 2017年 ブラジル独立記念日 (2017年9月7日)
▼ 2016年 ブラジル独立記念日 (2016年9月7日)
▼ 2015年 ブラジル独立記念日 (2015年9月7日)